①調う
まっさらな わたし に還る
余分なものを落としてニュートラルな状態へとリセットする
②研ぎ澄ます
まっさらな わたし の純度を高める
感受性を磨き、繊細に感覚をとらえるエクササイズ
③存分に味わう
まっさらな わたし = 今この瞬間そのものとして寛ぐ
集中が高まった先の瞑想的な時間を味わう
・・・・・
あらゆる感覚が展開している「今この場」であり
わたし といういのちのすべてである『カラダ』。
感覚に集中しながら『カラダ』を丁寧に動かしていくと、
感覚はさらに繊細に、精密に、研ぎ澄まされ
豊かな感覚に導かれる動きによって『カラダ』はおおらかに解放されていきます。
次第に波が静まっていくかのように、ノイズが消えた澄んだ状態へ…。
それは、
不要な作用が除かれ、『カラダ』が本来の自然な姿へ調った状態、とも言えるでしょう。
そして、
自然と起こる持続的な集中の中で、澄んだ静けさが拡散していくかのような瞑想的な状態へと入っていきます。
微妙な兆しや
はっきりと意識にはのぼってこないけれど、確かにそこに感じているもの
今この瞬間に繰り広げられている、まだ言葉では表現されないようなさまざまなこと、
言いかえれば『カラダ』そのものを、
存分に体験する。
游氣ヨガはそんな時間をめざしています。
東洋思想には 、西欧の客観的世界観には無い、「根源的なエネルギー」 のような観念があります。
科学では証明され得ない、感覚することしかできないようなそれは、
中国や日本あたりでは、「氣(気)」と呼ばれているもの。
生きもののカラダだけでなく、絶えず流れ、姿を変え、変化しながら「森羅万象に満ちている」と考えられています。
「氣」の流れによって感覚が生まれ、
感じることで「氣」の流れが変化する。
カラダの感覚と「氣」の流れを区別することはできません。
私自身、「氣」を手がかりとして動くことで感覚がみるみる拓かれ、
「カラダが動く」ということへのとらえ方が大きくくつがえされた経験がありました。
「氣」の流れとともに動くことは、それ自体、悦びであり、豊かな体験となるでしょう。
「游」は、
泳ぐ、遊ぶ、流れ
などの意味がある言葉。
「氣」の流れとともに、カラダが流れ、自由に奔放に游ぐ
「游氣」という言葉に、そんな意味を込めています。
心身の調和を目的とした運動として扱われることが多い氣功やヨガですが、
カラダが調う、ということとカラダを「自分の都合のいいように整える」ということとは全く違います。
むしろ、絶えず変化し続けるあらゆる感覚そのものであるカラダは、
決してコントロールしきれるものではない、ということを知ることになるでしょう。
畏敬の念を持ってそれをただ見つめ、聴き、感じることしかできない、
自分の思い通りにならない、在るがままのカラダに、ただ寛ぐ。
そんな風に、主導権をあけわたすことの練習こそが氣功やヨガの本来の意味。
游氣ヨガでは
その本来のヨガや氣功の目的を大切にしています。
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