カラダを探険する、ということ

カラダを探険する、とはなんなのか?


ここで言う「カラダ」とは

「もの」である肉体・身体ということだけではなく、

 

絶えず生成消滅し変化し続ける、あらゆる感覚、

わたしという生命体が感知する「こと」を含めたもの。

 

 

「もの」である肉体は

もとをたどれば、宇宙の一部である地球から与えられた物質で出来ていて、

 

さらに、

そこで繰り広げられている「こと」である感覚にいたっては

いったいどこから生まれてくるのか?

 

考えれば考えるほど本当に不思議で、深遠で、神秘としか言いようがないのに

一方では、こうも自分自身に身近で慣れ親しんだものでもあるカラダ。

 

 

そのカラダを、

 

そこで絶え間なく変化し続けているさまざまな感覚を、

 

好奇心満々で未開の地へ踏み込むようにして、

じっくりと味わい尽くし、

 

カラダにおいて、既存の世界観を覆されるような、思いもよらないことと出遭う。

 

 

それが「カラダを探険する」こと。

 

カラダを探険するとなぜクリアになるのか


変化し続ける様々な感覚を丁寧にとらえようとすると

その集中によって感覚はさらに繊細に、精密に、研ぎ澄まされます。

 

次第に、

波が静まっていくように、ノイズが消えた、澄んだ状態になっていく。

 

 

それは

不要な作用が取り除かれ、カラダ本来の自然な姿へ調律された状態、とも言えるでしょう。

 

 

さらには、

持続した集中が自然と起こり、その澄んだ静けさが拡散していくかのような瞑想の状態へ…。

 

 

そこで繰り広げられていることを冴えた感覚で深く体験しながらも、

そのダイナミックな波や流れの中心で落ち着いてリラックスしていること。

 

現場の最前線と、俯瞰するような視座とを同時に存分に味わうこと。

 

 

それが「カラダを探険する」こと。

 

カラダを探険するとなぜ制限が外れるのか


人体の解剖図が無かった昔、ひとはカラダをどんな風に認識していたのだろう?

 

解剖図=皮膚の内側を知識として知っているわたしたちよりも

「もの」としてのカラダや、カラダの内/外、という感覚は薄かったはず。

 

 

「これはこういうものとして知っている」ということは、枠を作り制限をかけること。

 

そうやって、

感じとった様々なものごとを言葉によって整理分類しながら「わたしのカラダ像」を作り上げていく。

 

そして困ったことに、

多くの場合、それは単なる思い込みでありながら、まるで「世界の摂理」のような顔でその場に馴染んでいます。

 

 

カラダを探険すると、

その枠は壊され、再構築されます。

 

 

知っていることをいったん棚上げし、

言葉以前、名付けられる以前の感覚と出遭おうとしてみる。

 

さまざまな「知っているという思い込み」に気づくことでその枠は壊れ、

知っているはずだったものごとの、思いもよらない貌と出遭います。

 

そこには、

繊細な手触り、微妙な匂い、鮮やかな色あい、すばやい流れなど、

豊かな感覚が溢れている。

 

 

感覚は、拓き、研ぎ澄まそうとすればするほど、精密になり、

ますますカラダはいろんな声を聴かせてくれるようになり、

感覚が、どんどん、多様に、多層になっていく。

 

カラダを探険すればするほど

その無限っぷりを思い知らされ、

 

そのことは、

それまで抱いていたカラダや世界や″わたし″の像を、軽やかにくつがえし解き放っていく。

 

 

それが「カラダを探険する」こと。

 

カラダを探険することはなぜ魅惑的なのか


感覚の精度に限界はありません。

 

無限に研ぎ澄ますことができます。

 

ということは、

感じとれる感覚も無限に拡がり深まっていくということ。

 

 

今感じとれる感覚のひだの間に、

まだ一度も味わったことの無い感覚がある。

 

初めての景色に心がおどるように、

毎回新たな感覚に出遭いなおす。

 

まだ言葉では表現されないような微妙な兆し

はっきりと意識にはのぼってこないけれど、感じていること

の、存在。

 

未知のカラダ、未知の“わたし”と出会う驚きや感動。

 

 

どんなに丁寧に繊細に味わったと思っても、

決して尽きることなく味わえるそれらを、

もっともっと体感してみたくなる。

 

体感すればするほど

その奥にある拡がりの予感が増すから

ますます好奇心が沸き立つ。

 

 

それが「カラダを探険する」こと。